違うブログ

どこかの誰かが書いたやつとは違うブログのこと

最終手段に効果は

人と違うようでありたい思いと人と同じでありたい思い、そのせめぎ合いが人という現象だと思う。それに合った適切なバランスが得られれば自信とか幸せとかが発生する。それを把握するには他人を知る必要がある。結局のところ、それが少なくなったのだ。不可視のものは存在しない。僕は他人も自分も見失い、ブレッブレである。

といったような調子で色々な説明ができるが、どの説明も正しく、それぞれもっともらしく、そして一つも心に響かない。個々が正しくても合計すると間違っている、そんなことがありうるのかと、しんみりとする。そんな思考状態がここ一年くらい続いて、乗り越えようと試行錯誤している。そろそろ最終手段とも言うべき手段を試すつもりだ。それは住環境の強制変更、すなわち引っ越しである。まあ、最終手段というとかっこいいが、そのかっこよさだけが先行しているに過ぎない。効果の程度は知らないがそれしか無いからそうするのが最終手段であって、効果は蔑ろにされているともいえる。

効果。効果ね。効果についてこれだけ考えた期間があっただろうか。ワクチンの効果。go to 某の効果。緊急事態宣言の効果。休業要請の効果。季節変動や変異株や規制内容の変化などの無数の変数によって完全に不透明化され、さらに自己矛盾をも内包した“効果”たちを論拠に、似た規制が繰り返し敷かれる。全てが最終手段の様相を呈している。ディストピアだな、と思う。そういえば友達は、一年以上前に外出自粛を呼びかける市内放送を聞き、その結論を早々に導いていた。僕はその時、こいつはディストピアの外にいるな、と思った。ディストピアは外部からは容易に観測できる。内部にいた僕には、そう言われるまでそれに気づくことすらなかった。今はやはりディストピアなのだ。今こうして自分の生活の内にディストピアを新規に発見し、改めてそう思う。

効果を語る効果が僕にはもう分からなくなってしまった。僕の場合もまた、全てが最終手段と化している。もう効果とやらに期待したくはない。しかし残念なことに、それでも僕は、その自己決定がポジティブな方向に働く効果を、どうしても期待してしまうのだ。