ふと思ったんだけど

言葉にすれば、何か分かるかもしれない

現実のヒーローと架空のヒーローの違いは何か?

こんばんは。ヒーロー映画が嫌いな作者です。

現実のヒーローと架空のヒーローの違いとは

 

ヒーローの主体的構築

僕はヒーロー映画が嫌いだ。

ヒーロー映画の中には、自分にはないものを持った主人公が、圧倒的に光り輝く世界が用意されている。ヒーロー映画は、その残光、僕が掴めなかった可能性だけを残して、無慈悲に退散していく

そう感じる原因は、ヒーローが自主的にヒーローを構築していることにある。救った女の子との恋愛成就のような吐き気が出る作品でも、救いようのないほど誰も救われない心地よい作品でも、結局はヒーローがなろうとしてヒーローになっているのだ。

しかし、そんな主体的なヒーローは、現実には存在しない。

 

僕は誰かのヒーローになれているのか

なった経験はある。

  • 海外の現地校で、英語もままならない転校生と仲良くした。
  • 友人をいじめから助けた。
  • 友人の自殺を制止した。

自分にとっては、いずれも当たり前の行為だった。いわば日常だった。

僕は容易には人を信じない。しかし、当の本人たちから心から感謝されていることは、言葉の有無に関わらず感じとることはできた。それくらいの人間味は僕の中にまだ残っている。

僕は彼らによって、勝手にヒーローに仕立て上げられた。つまりは、そういうことである。

 

潔いヒーローを目指して

本当のヒーローは、日常の中に潜伏している。現実のヒーローは、無自覚に、勝手に、そして無責任に、人を救って去っていく。なろうとしてなっているわけではない。現実世界のヒーローたちを見ていても、そんな気がしてくるのだ。

僕ら全員が世界を救うヒーローになることはできない。しかし、僕たちは皆「誰か」のヒーローになることはできてしまう。その相手は、恋人かもしれないし、子供かもしれないし、そして、自分かもしれない。そして、僕たちはそれに無自覚であるべきなのだ。

スパイダーマンは最後、その仮面を剥がれる。仮面の消失は、計算され構築されすぎたヒーロー物語の終止符である。しかし、本当はそうであってはいけない。その終止符は、自分では打ってはならないものだと思う。

 

こんなのも書いてます。

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それでは!