ふと思ったんだけど

言葉にすれば、何か分かるかもしれない

選手の勝利は「日本の誇り」なのか?

こんばんは。何も誇れない作者です。

大坂選手の試合動画を見ていたのですが、ともかく安定感が凄いですね。試合相手が勝手に崩壊していくように見えるくらい安定しています。

さて、我々はどうやら日本人選手が勝利すると歓喜するようです。その裏には「日本の誇り」という思想があると感じます。しかし僕はそれに共感したことがありません。それがなぜか、考えてみました。

選手の勝利は「日本の誇り」なのか?

 

「誇り」とは何か

誇りとは「自分にとって都合が良いことが起きた時に使われる言葉」だと僕は思っています。あなたの誇りを教えてくださいと言われた時、どう答えるか。僕は、自分に都合の良い、自分の「思い」通りの自分像を相手に渡そうとします。

他人を誇りに思うのもある程度同じかと思います。例えば親が自分の子供を誇りに思う時というのは、子供が親の「思い」通りのことを成し遂げた時ではないでしょうか。

自分の都合の良さで誇りか否かを判断する自己中心性の問題は置いておくとして、誇りという概念は「思い」がある人が持つ概念だと思います。僕が「誇り」に共感できないのは、この「思い」が無いからです。

 

「思い」を持つのは誰か

僕に「思い」が無い理由を分解すると以下の二つの理由が浮上します。

  • 自分の「思い」は選手に対し無力である。
  • 選手の勝敗は自分の都合とは関係がない。

この裏を返せば、「思い」がある人、つまり誇りを感じる人の条件を導けます。

  • 自分の「思い」が選手に対し有力である。
  • 選手の勝敗は自分の都合に影響する。

前者は例えば熱烈なファンでしょう。寄付や試合観戦で資金援助などを行っている人がそれです。そして後者は例えばテニス振興機関の関係者でしょう。テニスの有名な選手が敗退続きではテニスの振興は見込めないので、組織の命運ないし存続に関わるわけです。

こうした人は確かに選手に「思い」があり、誇りという感情を抱きうるでしょう。しかしこれらの人はごく少数です。選手に対する思いがなく、選手の勝利を「誇り」と主張できない人がほとんど、というのが僕の現時点での見解です。

 

共通性探しは異質を生む

選手に対する「思い」はどこから来るのか。それは「共通性」ではないかと僕は思います。同じ日本人であること、同じ町の出身であること、同じ境遇であること。紛れもなく「思い」へと繋がる主要なルートの1つであり、それぞれに対して「同じ〇〇としての誇り」が成立します。

しかしそうした「共通性」の考え方は同時に「異質性」も生み出します。「所属している人」を作ることで「所属していない人」が必然的に生み出されます。差別と結びつけて考える人がいるのもそれが原因でしょう。

選手の勝利を誇りに思えたことはありませんが、選手の技やプレッシャーの中での敢闘は僕でも十分讃えられます。所属に関わらず、すごい選手やすごいプレーに平等に感動できる人間でありたい。願わくば世界もそうなってくれるといいのですが。

 

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それでは!