ふと思ったんだけど

言葉にすれば、何か分かるかもしれない

完璧な自動翻訳ができたら、外国語を学ぶ意味はなくなる?

こんばんは。一応帰国子女です。

数年前までGoogleの自動翻訳は全く使い物になりませんでしたが、最近かなり精度を上げてきています。実に目まぐるしい進歩です。それで時々思うのです。自動翻訳はいつか究極形、完璧な翻訳マシンの境地に到達するのでは、と。

完璧な自動翻訳ができたら、外国語を学ぶ意味はなくなるのか?

 

英語を話せることがステータスではない時代

高校までの英語教育が劇的に変わらない限り、英語ができない日本人は減らないと思います。教育が劇的に変わるとも思えない。英語を話せるよう人間を教育するより、自動翻訳を下支えする人工知能を教育し、人が英語を学ばなくても良いようにする方が速いのでは、と僕は思っています。

自動翻訳の進化によって、英語力がステータスではなくなる時代。帰国子女は非常に耳が痛いですね。それ以外のコンピテンシーが無くても今まではどうにかなってきましたが、今後はどうにもならなくなる。僕もアイデンティティクライシスです。

 

自動翻訳の限界とは

人間にしかできない表現があると僕は信じています。人間の作家は膨大な経験とそれに関する思考を整理し、意志を持って物語に落とし込むことができます。僕たち読者はその経験・感性・意志・思考の深さに敬服します。「その人にしかできない表現」が必ず存在し、僕たちはそれを享受するのです。それを可能にするのが翻訳家です。

「その人工知能にしかできない表現」も今後生まれてくるでしょう。しかし、作家・翻訳家が人工知能であること自体が一種の足かせになると思っています。人工知能が手を加えた文章であるという事実を知ると、その文章に対する読者側の感性の発動が制限されるような気がするのです。それが起きると文章としての価値が低くなってしまいます。

こうした人工知能に対する「八掛け」は既に社会現象として現れています。

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もちろん、人工知能チューリングテストを通って、かつ人工知能が執筆した文章であることが隠されれば、結果はわかりませんけどね。

 

人の翻訳と自動翻訳の違いとは

翻訳では「相手」が想定されます。つまり誰かに見せるものであるという前提があります。しかし、ここには2つの落とし穴があります。

1つは、理解は定量化しづらいということ。自分の翻訳と自動翻訳、どちらの方が分かりやすいのか、それを定量化して比較することは難しいです。

そしてもう1つは、必ずしも理解されることが良いとは限らないということです。万人に理解できる文章はこの世に存在しませんし、理解できる人とそうでない人がいるからこそ、文学芸術という概念が成立する部分もあります。

このようなことから、人工知能による翻訳と人間の翻訳の違いは「理解、あるいはその必要性」だと僕は思います。ここに僕たちは外国語を習得する意味を見出すのではないでしょうか。

 

まだ、思考を詰められる気がします。でもとりあえずはこれで一区切り。

 

完璧な自動翻訳ができたら、皆さんは外国語を学ぶのをやめますか?それとも、続けますか?

 

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それでは!