ふと思ったんだけど

言葉にすれば、何か分かるかもしれない

一人を救えない人間が多数の人間を救うことができるのか

こんばんは、どこかの誰かです。

いじめという文脈を与えたとき、タイトルで示したこの問いかけに、僕は反語的なニュアンスを加えます。「身近な一人へのいじめに対処できない人間がクラスや学年単位のいじめに対応できるわけがない」と。

いじめの傍観者だった同級生たちが教員を目指しているのを見て、なんかなーと思う。その背景にはこの思想があるわけです。

一方で、命題の対偶をとってみると、「多数を救える人間ならば一人の人間も救える」になる。同じことを言っているんですが、こう言い換えると微妙な気がするんです。スケールが違うなら考え方が違うのが自然ですからね。

すると、「あの時のあの一人を救えたかどうか」という僕が大事にしている問題は、大人数に当てはめた時、必要条件ではなくなる可能性が出てくる。つまり、その当時行動できなかったとしても、その過ちによって同級生たちの教員を目指す権利が剥奪されるわけではない、ということになる。

したがって僕は黙るしかなくなるわけです。書いてるけど。

 

まあ、そもそも人を救うことができるのかって話なんですけどね。

sourceone.hatenablog.com

僕が介入して消したと自負しているあのいじめの案件は、本当になくなったのか。僕がそう思いたいだけかもしれない。確信は持てない。 

  • 「一人を救えなかった人間は多くの人間を救うことなどできない」という僕の中での思いが間違っている可能性がある
  • そもそも自分が介入したいじめは消えたのかどうか、確信が持てない

となってくると、他人の批判ってやりづらいんですよね。できないわけじゃない。ただ、深い、本質的な批判はできねーなっていう。それでも批判しなきゃならない感はあるけどさ。

ならば、そういうのに関係ない部分を磨くしかありません。すなわち、いざという時、自分を守れるか。自分の周りにいる大事な人を守れるか。それに尽きます。いうほど簡単ではありません。

身近ないじめに介入したときは何も考えていませんでした。自分が苛められるリスクも含めて何も考えていなかった。何も考えずにやったことがいいことなら、こうやってあれこれ考えることに意味はないのかもね。

全て行動で示していく。行動が全てを表している。そういうことにしておこうと思います。

 

 

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実際に使ってる人見たことないので共に歴史を作りましょう

 

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