ふと思ったんだけど

言葉にすれば、何か分かるかもしれない

飼育と搾取

こんばんは。猫好きの作者です。

正月ということで、家でまったりしながら猫と過ごすことも多くなりました。そんな中で思ったことを書いていこうと思います。

 

猫が意識される状態と意識されない状態

猫は「動く置物」だと思っています。ある時は西日の当たる心地よい窓辺で寝ていたり、ある時は読書中の膝に図々しく乗ってきたり。空間に猫という点景があることで、その空間全体の雰囲気が大きく変わります。空間に対するアクセントという意味で、置物である。ただ、動くってだけで。

何で猫がアクセントになるんだろうと考えた時、僕はその無意識性を挙げます。日常生活において猫の挙動全てを把握することはありません。家事や課題に追われ、猫の一挙一動全てに構ってはいられない。つまり、猫を意識している瞬間と意識していない瞬間があって、意識外の部分があるからこそ猫はアクセントなのです。

僕らが猫を意識する瞬間は2種類あると思います。僕らが猫を意識してアプローチを仕掛ける場合と、猫が僕らを意識してアプローチを仕掛ける場合です。例えば、ふと猫を撫でたくなった時、猫との接触を求めて僕が主体的に動きます。一方、例えば勉強に集中している時に猫が部屋に入ってきて「そんなことしてる暇があるなら我輩と遊べ」と提案してくるような場合もあります。猫という外力によってその存在が初めて意識されるのです。

ですが、こうして僕らが猫を意識している時間はそう長くはありません。正月に家でまったりしているこの時期でさえ、猫に構っている時間は1日1時間程度です。大学が始まったら関わる時間はもっと少なくなるでしょう。

 

「飼育」による搾取の正当化

猫好きと話していて頻繁に登場するフレーズがあります。「猫に飼わせてもらっている」というものです。猫を飼い始めると全員が猫にメロメロになり、猫が家族の中心にくる感覚を冗談めかして表現したものですが、純粋にそういう風に捉えられる感性が素敵だと僕は思うのです。我々が猫を飼っているのではなく、猫に頼んで家に住んでもらい、癒しを提供してもらっている。僕自身、猫に癒されたことは何度もありますし、その感覚はよく分かりますが、明確に言葉にしたことはありませんでした。どこか、猫は自分に飼われる存在である、下等な存在である、そんな捉え方をしています。

しかし考えれば、猫という動物が我々の家に住む必要はどこにもないのです。猫は自律性が高い動物です。縄張りをしっかり作ってそのメンテナンスには時間を割くし、トイレは決まった場所にします。そして僕らは一日の大半を猫を意識せずに過ごしています。我々が猫を意識する短い時間の内訳を見てみても、自分に都合の良い時だけ猫を賞賛し、そうではない時は猫を邪魔だとすら感じているかもしれない。

野良猫を相手にして、餌を与えるだけ、寝床を提供してあげるだけなら、猫を飼っているとは言えません。しかし猫を「飼っている」僕らは、それ以上の何かをできているのか?一体、何を以って僕は「自分は猫を飼っている」と言うのか?

猫は死ぬ時、自分が死んだことを悟られないような場所に移動し、誰にも迷惑をかけずに最期を迎えると聞きます。猫という存在は最初から最後まで流動的です。それを僕らは捕らえて「飼育」する。飼育という単語に、我々と猫が直接的関係を築く短時間のうちの、猫からのアプローチがあるごく一瞬の負担だけを当てはめ、それによる正当化のもとで猫から癒しの搾取を行っている

そんなことを考えながら、膝の上の猫から熱を搾取しています。