ふと思ったんだけど

言葉にすれば、何か分かるかもしれない

自分と戦う自分へ

大抵の場合他人は君のことになど関心はない。君から何を取り出せるか、君と関係を維持することにどんな価値があるか、それを事前に計り、リスクがあるなら関係維持の負荷を軽減しようとする。いや、もちろん、そんなことを必ずしも要求してこない人たちもいる。そういう人たちはまあ、親友とでも呼べばいい。まあそんなことはどうでもいい。この手紙では、自分との戦いについて考えたい。

これについて考えるとき、本来は「自分との戦いは戦いと呼べるのか」という”事前課題”に触れなければならない。自分との戦いなるものが存在しないならこれ以降の思考が無駄になってしまうからだ。ただ、この事前課題は難しすぎて解けない。しかし、この問題にぶちあたらなくて済む思考的迂回ルートがある(現実的にこっちの方が重要なので、これについて書くために事前課題をスキップする)。「Nobody Gives a F&ckの原理」をこの問題自体に適用してしまうのだ。自分との戦いと呼んでいいかどうかという問題にすら、”彼ら”は関心を示さない!ゆえに、戦いとみなしてもいいし、そうしなくてもいい。その選択まで含めて己の中で完結する問題だと考えるのだ。

注意しなければならないのは、「僕は自分と戦っているんです!」と周囲に言いふらした瞬間、その戦いは自分だけのものではなくなるということ。まあ、これは今ふと思いついただけなのであまり深い意味はないだろうけど。

ともかく、これで事前課題は片付けたものとみなそう。次の問題は「何かを自分との戦いとみなした方がいいのか否か、その基準は何か」である。戦うということは負ける可能性を受け入れるということでもある。そう考えると嫌だしめんどいし解けない。そこで今度は「What do you have to lose?の原理」を動員して迂回する。今が底辺でここからは伸びしろしかないんだぜ!という、失うものは何もないの精神。これを導入すれば少しはポジティブに考えられるだろう。てかそもそも、自分との戦いの目的って勝利ではなく「習慣化」「ルーティン化」「意識しなくてもできるようになる」が目的の場合も多いので、そこをわざわざ負けと考えにいく必要もないだろう。

迂回しまくってんじゃん、真正面からやりあってねーじゃんという話である。でもこれが僕のやり方だ。Nobody gives a f&ck anyway. What do you have to lose?