ふと思ったんだけど

言葉にすれば、何か分かるかもしれない

ブロッコリーを相対化する

こんばんは、どこかの誰かです。

善悪と好き嫌いって、ある程度は同義だと思うんですよね

例えば、僕はブロッコリーが嫌いだったとしましょう。なのにお母さんは夕食に毎晩ブロッコリーを出してくる。この状況が続くと、僕はブロッコリー経由でお母さんを悪とみなすようになります。ブロッコリーをひたすら出す母親という存在を悪とみなし、食わせてもらっているにも関わらずあれこれ文句をつけ始める。

「何かが悪である」といった主張は「その何かが嫌いである」という感覚が前提になっているのではないか。あるいは、「何かが善である」と言った主張は「その何かが好きである」という感覚が前提になっているのではないかと思うのです。

ただ、嫌いという「感覚」はその人にとって間違いありませんが、それが悪という「判断」は正しいとは限らないと思うのです。例えば、冬は野菜の種類が少ないという客観的事実があり、栄養バランスを維持しようと思えばブロッコリーが繰り返し食卓に登場するのは避けられない部分があります。それを理解すれば、料理を作っている母親が悪の存在ではなくなり、理不尽な文句を浴びせる必要性もなくなるわけです。

 

別の例。

紙の本の良さを推すのは出版業界の生存戦略の一環ですよね。実際に良さがあるかどうかは別として、良いイメージを作り出すことが彼らの戦略です。ブログ書きながら言うのもあれですが、僕もどちらかというと読み物は紙、印刷物が好きです。理由はよく分かりません。

ですが今後「本と言えば電子書籍!紙の本なんて使ったことがない」という世代が出てくると考えられます。彼らにとっては電子書籍こそ便利で見やすくて扱いやすいものかもしれません。僕にとって紙の本が読みやすい、扱いやすいものであるように。

「本の紙の質感には人間的なぬくもりが」みたいなのって、果たしてどこまで有効なんでしょう。それって下手したら「未来の人々って人間性ないよねー」と言っていることになりませんか?そんなことはないと思います。彼らは彼らの人間性を持っているはずだし。

だから一度相対化する必要があると思います。紙の本が好きだとあれこれ理由をつけている僕は、自分の好みを正当化しているだけで、その真価なんて本当は分かっていないんじゃないかと。変化を好まない僕が変化を拒絶するための合理化を行っているだけなんじゃないかと。

 

ま、ブロッコリーや本に限らず、相対化のプロセスを大事にしたいと思っています。

  

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