ふと思ったんだけど

言葉にすれば、何か分かるかもしれない

近況報告190916

こんばんは。どこかの誰かです。お久しぶりです。

 

だいぶ前になりましたが、あおり運転の件で、全く関係のない女性がインターネット上で吊し上げられる事態が発生しました。女性を吊し上げる画像付きのツイートが自分のタイムラインに流れてきたのを覚えています。

僕がそのツイートを拡散しなかった理由は、その真偽が不確かだったからではありません。それが自分のツイートタイムラインの中に紛れ込むのは汚いと思った、それだけです。僕の都合です。

24になってから問うのでは遅い問題なのですが、真偽ってどのように判定すべきなのでしょうか。例えば、関東大震災時の朝鮮人虐殺に関する書籍が大学の図書館に十冊ほどありますが、いくつか読んでみると、新しい方が古い方を否定しているのです。じゃあ最新のが正しいのか?そんなの、専門研究者ですらない僕にわかる訳がありません。これらの本を読んでも僕が得られる情報の信頼性は擬似的にゼロなんです。どんなに本を読んでも、信頼性は擬似的にゼロです。

物理学で不確定性原理というものがありましたが、深く調べれば調べるほど物事の真偽は曖昧になると思うんです。各現象の状況限定的側面がより浮き彫りになり、一般的なことがどんどん言いづらくなる。したがって、真偽の1つの指標として「それがどの程度の信頼性を持っているのか」についての解説があるかどうか、これが1つの分かれ目になっているかと思います。やってることがメタだけど。

 

そして、発信者としての僕という存在についても考えさせられました。僕は僕が正しいと思ったことを好き勝手書く。読者の方はそれについて好きに感想を抱いてくれればいい…そういうスタンスでブログを書いてきましたが、読者がいる以上、読者に僕の文章が影響を与える可能性は常にあるわけです。そして文章表現次第で僕はその影響の内容を操作できます。

そうであることが分かっていながらなお「好きに感想を抱いてくれればいい」と言い張るのは、言葉に対する責任放棄ではないか?と自問しています。まあ、そもそもお前のブログには大した影響力はないと言われればそれまでですが。

さらに言えば「読者の方はそれについて好きに感想を抱いてくれればいい」という考えの中には「ただし、こっちを否定してくんなよ」という前提が含まれていると僕自身も思うのです。「自分で考えなさい」というセリフが「自分で考えて私と同じ結論に達しなさい」とほぼ同意義であるように。

 

この辺の問題を回避するための方法は少なくとも2つあると思います。1つは、対象者を超厳密に定義し、その人たち以外には適用可能でないことを最初に明示しておくことが必要です。ブログでそれをやると、特化型ブログになるわけです。そしてもう1つは笑いを提供するブログ。

そのどちらにも属していないこのブログ、まずくないか?