ふと思ったんだけど

言葉にすれば、何か分かるかもしれない

自信とは具体的にどういうことか

こんばんは、どこかの誰かです。

自信という字は「自分を信じる」という風に書きますが、具体的に自分の何を信じるのか?今回はそれについて思うことを書いていきます。

 

心と体をそれぞれ信じる

自信という時、僕は具体的に「心と体をそれぞれ信じること」と考えています。どちらも素直で嘘をつかないから信じるに値するのです。

心を信じるとは、自分の感情を信じることです。感情は常に正しい。感情が間違っていたら何が正解になんだって話です。だから、というとあれですが、僕はサボりたいと思ったらサボるようにしています。

人はそれを逃避と呼ぶかもしれません。僕も最近まで逃避を疑っていましたが、「これって逃避なんじゃないか」という思考って何も生み出さないんですよね。逃避すべきじゃないって頭では分かっていても感情がついていかない限り仕方がないことです。感情と行動(=身体)の二輪駆動ですからね、人間は。

感情が嘘をつかないのと同じように、体も嘘をつくことがありません。例えば眠気。コンペの締め切り直前でもない限り、眠気を感じたらその夜は早めに就寝しています。そういえば以前こんな記事も書きましたね。僕にとって十分な睡眠は物事がうまくいくための最低必須条件です。

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こんな感じで、「まだ頑張れる」とか「ここで無理したらまずいだろう」と判断するための基準設定を心と体に任せるのです。まだいけるか?と心と体に聞いてみて、その答えを信じる。それが「自信」だと考えています。

 

経験と自信の関係とそれに対する違和感

自信って精神的な話じゃないの?と思われた方もいるかもしれません。自分ならできるとか、次は成功するとか。多分そうお考えの方って、色々なことを経験して教訓を得る中で自信がつくと考えていると思います。つまり、教訓が自信につながると。

確かに、経験から得た教訓が新しい挑戦の中で生かされることはあります。経験を積めば得る教訓も増えていき、自分の汎用性が高くなります。しかし所詮過去は過去です。新しい挑戦には新しい問題があって、それに対処することが最優先。教訓は必要あらば活かすツールに過ぎないわけです。

つまり、将来的使用できるか分からない過去の教訓を正しいものと信じるタイプの「自信」は危険だと思うのです。手法に依存して自己陶酔したり思考麻痺に陥ったりするリスクがあります。もっと確実なものはないか?そう考えた結果が上で説明した「心と体を信じる」です。

心と体は正しいのは確かですが、まずはその正しさを実感する必要があります。「あの時は気持ちを封じてやって失敗した」「あの辛い時ちゃんと睡眠を取って体調崩さなかったから成功した」。そういう風にもがいていった中で心と体の信頼性を手探りで確かめていった先に、僕にとっての自信があると思っています。

  

 

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