違うブログ

どこかの誰かが書いたやつとは違うブログのこと

自分に対する感度低下

卵を割ってシンクに黄身を捨ててから、それがミスだと気づけるまでの"あのタイムラグ"をどう呼んだものでしょう。心と身体の接続が一旦切れたから再度接続を試行しているような、システムをリブートしているような感じがしますよね?よね、とかいって、皆さんはあまりそんなアホな経験ないですかね。

心と身体は繋がっているとかいうくせに、精神的疲労と身体的疲労には互換性が無いのは、なんというか、納得いかないんですよね。仕事上身体的には疲弊しないからこんなことを書けるのだろうけど、僕の感覚では、精神的疲労と身体的疲労が均衡すると睡眠の質に満足がいくようになるんすよね*1。精神的疲労だけが蓄積するとアンバランスだから、釣り合いをとるために日々のエクササイズ。不足する身体的疲労の補給。そう位置付け、そう念じています。

しかしそれもどうやら嘘っぽい。激務が続いて朝のエクササイズが2週間くらい停止しても、メンタルヘルスには特段影響なし。エクササイズの有無と体調が露骨に相関していた前とは違う。この変化を「強さ」とか「成長」とかと呼称することに僕は抵抗しますよ。正しくは「鈍さ」あるいは「老い」。自分の状態に対して感度が下がっている。それが何の終わりを意味し、何の始まりを示すものか、あまり想像はしたくないのです。

僕の仕事は守りの仕事で華があるとは言えません。僕らの(正確には、僕の先輩たちの。僕はまだ戦力外)仕事によって人々の生活が支障なく成り立っているのは事実。敢えて曖昧な言い方をすると、各個人の負担は大きく、これまでに色んなものが犠牲にされたのだと思います*2。今でこそそういった犠牲は明白な悪と位置付けられているけど、その事実を過去に遡及適用し、過去に犠牲を払った人々を貶めるような態度はやはり間違ってますよね。事実、それによって支えられているものがあるのだから。

自分の未熟な仕事ぶりを省みながら、そんなことを考えています。しかしこうしていざ書き出して、しばらく置いた上で再訪してみると、まるで洗脳を受けたかの様にも映りますね。だからやはり、この先はあまり想像したくないかな。

*1:無論、いずれも疲労レベルがある程度のラインを超えない範囲内での話ではあるが

*2:そもそも当時それらは犠牲と見做されていなかったかも知れない。後世にお前はそ可哀想だと言われて、先達は何を思うのだろう。