違うブログ

どこかの誰かが書いたやつとは違うブログのこと

超雑談6

  • *1
  • 幸せのイメージを全部リセットできたらいいのに、と思う。全部。完全に。幸せのイメージが出来上がっているせいで、それに合致しないものがデフォルトで幸せでなくなってしまう、雑なシステムだ。幸せにも当然、自分らしい幸せみたいなものがあるのだろうけれども、発掘するのがあまりにも面倒だ。部分的なリセットは可能だとは思うけど、全面的なリセットは僕のこの年齢では既に手遅れなのではないか。と思いつつもそれに抵抗してみたいのだ。
  • 自身のメンタルヘルスについて考えないことが僕のメンタルヘルスに一番寄与するんです、とメンタルヘルスの研修講師に返したら、長々と説教されてしまった。内容は覚えていないが目的は果たした。ささやかな仕返し。
  • ブログでなるべく不真面目なことを書こうとするのだけれどもうまくいかないのです。こう見えてボケキャラなんですよ。会話でボケるときは場当たり的にやるのですが、ブログだとボケの元ネタから自分で提供しなければならない。そして皆さんなら予想できると思いますが僕のボケもかなり癖があります。大抵は時事ネタや歴史ネタを交えてボケるので、相手が理解してくれそうという確信が持てないと、ボケを仕掛ける側としてもかなり厳しいものがあります。
  • SNS上の発信内容からその人の年収を推定することは容易なのではないか?
  • 意見を持つことは大事で、意見を持っていてそれをはっきり言える人はかっこいい的なイメージをここに至るまでに刷り込まれてきたけれど、今思えばこれはSNSを想定してないなあと思う。実際の場面でやるべきことをやれる・言うべきことを言える人間は今も昔も変わらず少ないのだろうけど、意見を持っている、はっきり言っている人間ばっかだよね、SNSは。そうなっちゃうともはや、意見を持ったり主張したりすることに、希少性に起因するかっこよさなんて無いよね。
  • アメリカのコメディアンJim JefferiesがSNSについて「あんなにたくさんの人を知るべきではない」なんて言ってたけど、マジでそれなって思う。色んなすげー人のことを知られるのは便利ではあるけれど、それによって削がれるものもある。自分が今その何かをやる意味が、SNS上のどっか遠いところにいる第三者によって、先に消化されてしまうというか。例えば絵を描いてる人たち。彼らが上げる作品と僕の作るものとの間には雲泥の差があって、その差を前に諦観が湧いてくる。実際は彼らも訓練を重ねた上で現在の作風を手に入れたのだろうが、その過程が表面化しないのがSNSなのである。そういう断絶があるんだ。
  • 受信トレイ(2443)という数字を人のスマホに見た時はおったまげた。なぜそんなことになってしまうのか大学生の頃の僕にはわからなかったが、新卒で就職して仕事してる中で、徐々にその正体が最近見えてきた。それらはつまり「直接返事しなくても良いけど念のため見ておきたいから後で確認しておくために未読にしてあるメール」である。現在その数は(53)であり、減らしていかなければ~と思いつつ、減っていかない。あー。届いた瞬間に確認する癖をつけないと埒が明かないだろうな。
  • 真正面を指差す右手が僕の視界の右側に常にある。ゲームのプレイ中に画面の脇に表示される操作ボタンのように。指は常に僕が見ている方向を指差す。僕が右に首を回せば指も一緒に右を向くし、眼球だけを左に動かせば指も一緒に左に向く。ただし、若干のタイムラグがある。僕が視点をずらしてから少し遅れて指の向きが変化する感じだ。手首から先は視界の外へとフェードしている。どうやらこの手は僕にしか見えていないものらしい。らしい、というのは、確認が取れないのである。この状態を説明して理解してくれる画面越しの人はまずいない。状態を理解していない彼らの意見は全て無効だ。この指(厳密には手だが、指、すなわち指向性が大事なので指と呼んでいる)、無害かと思われたが、じわじわと心を蝕むのであった。まるで僕のあらゆる行動が、僕の背後にいる何者かに指示されているかのような錯覚を覚えるのだ。例えば僕は今こうしてブログを書いているわけだが、それを背後の何者かに「やれ」と指示されているようになっている。そして、これはさらに後から気づいたことなのだが、最初に説明したあの若干のタイムラグが意外と応える。なぜならそのタイムラグによって、その指が、僕がとった行動の手柄を横取りしているようになるからだ*2
  • 僕は年齢音楽*3を聴くのが好きだ。特に外国の、歌詞の意味のわからない年齢音楽が良い。僕は音階の運ばれ方にしか興味がないので歌詞の意味情報は邪魔である。気になって歌詞の意味を調べた結果、嫌いになってしまった年齢音楽がたくさんあるのも事実。意味を調べることだけは徹底的に避けなければならない。去年は年齢音楽に今までにないくらいに金を使ってしまった。年齢給料が幸い大して影響を受けていないのでそこまで問題ではないのだが、やはりどこか、根本的に、年齢心理が不安定化しているのだろう。しかし当の本人にはその年齢不安の起源が掌握できないのである。ぜんぶコロナのせいだ、と言えばそれきりだが、そんな曖昧なキャッチコピーでは僕は納得することができない。
  • 強めの風が吹く夜の公園。わざとらしく植えられた高さ15mくらいの木々がなぜかあまり音を出さずに風に揺れている。公園の真ん中には一本だけ街灯があり、その周りを放射状に木の影が踊る。通りがかった僕の目はその影の踊りの中に子供の存在を見出す。その子供は一人で木の影と一緒に踊っていた。風が子供を占有し、子供が空間を占有していた。僕は公園の外からその子供に話しかけた。君は一体何をしているのだ、こんな時間に。子供は僕をみずに答える。逆に、お兄さんはなぜ踊っていないの?普通踊らないだろ、と言いそうになって僕は踏みとどまる。僕はなぜ踊っていないのか。僕の周りには空間があり、その空間には風があり、風を受けて全てが揺れている。その中で止まっているのは僕だけであった。なのになぜ僕は踊っていないのか?*4

*1:下書きの墓場。

*2:これ以上この妄想を発展させられなかった

*3:年齢肌、という言葉を眺め、この「年齢」ってのを文章中の全ての名詞に冠してみよう、と思って試してできたのがこれである。すぐ飽きた。

*4:っていう夢を見ました。