あえて言うなら嫌いな中で
好きか嫌いかで言うと、このお題は嫌いじゃない(笑)。どう言うべきかな…嘘をつかせてくれないというか。インタビューシリーズとか放草シリーズみたいな、一捻り加えた現実逃避モノを書かせてくれない、いやらしいお題。実に嫌いじゃないね。なので生の思考を垂れ流すことにしようか。
好きか嫌いかで言うと、僕はどちらかというと人と話すことが嫌いだったはずで、それが少なくて済む世の中は僕にとっては都合がいいはずだった。いや、厳密には、人と話すことが多いときは人と話すことが好きだといい、人と話すことが少ないときは人と話すことが嫌いだという、自己正当化-平衡状態にあった。そこが崩れたのかな、コロナで。人と話すことが好きという可能性は感染リスクと共に排除されて、僕には選択肢がなくなった。好都合のはずが、今は認めたくないくらいに精神的に虚無なわけ。アホみてーだよね。
好きか嫌いかで言うと、自分らしさって言葉も嫌いかな、ってふと思った。この世の全てを好き嫌いで塗り分ける余裕はないけど、あえて言うならそうかなと。でも、自分らしさを「自分的であること」って言い換えると、やっぱ自分らしさって気持ち悪いなーと思えてくる。自分らしくあるってつまり、自分的であることを追求するわけで、なんかメタな構造になってて変だと思う。偽物は時に本物以上に本物らしいとか言うけど、自分らしいものと自分って、本当に同じなのかな。ま、知らんけど。
好きか嫌いかで言うと、今の自分は嫌いかな。自分らしさは勝手に発動するものだと思っているのでそれを意識的にどうこうってことには興味はない。ただ、今の自分のここがダメで将来の自分はこうあって欲しいっていう願望はあるから、僕にとっての自分らしさは今の僕にはないものとして定義されるのかもしれない。でもやっぱり自分らしさってやつは選択肢がある状況でしか存在できない贅沢だと思う。選択肢が一つしかなかったら、より自分らしい方のやつを選べないわけだし。
好きか嫌いかで言うと、無理やり言うと、この世界のことも嫌いなんだと思う。でもそれはその全てが嫌ってわけじゃなくて、僕が接してる小さな世界の中にも、切り取れば愛せる場面はあるかなと。僕たちは在ることを宿命づけられていて、全てはそれを前提としているわけで、結論は、それでも僕は在る、になる...少なくとも、そういう結論に到達できるルートは常に用意されていると思う。それを信じて、強く在ることにしよう。
この記事は以下の企画への参加記事です。森さん、面白い企画ありがとうございます。