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オリンピックの副作用

「主催国を問わずオリンピックに反対」と「東京で開催することには反対だが他国でやる分にはok」という2つの成分を区別しなければならない。これらは同じに思えるかもしれないが、実際はやや違う。無観客開催とすることでオリンピックは“画面の向こう側開催”となり、後者の見解とは擬似的に整合性が取れる。すなわち後者の場合は今テレビでオリンピックの試合を楽しんでいても自己矛盾に陥らない。しかし前者の場合はそうはいかない。オリンピックそのものに反対なら、試合を楽しんではならないような気がしてしまう。実際はそこまで厳しくはないのだろうけど、てか誰もそこまで厳しくはなれないだろうけど、そんな気がしてしまう。

しかしやはりオリンピックという仕組み自体に対する嫌悪感は拭い去れない。だいたい一部の人間が放映権の利益を貪る一方で運営に何万人分の無償労働が欠かせないってのはどういうことだ。選手のことを思う大会なら、日本の35℃の蒸し暑さの中をマラソンさせるなという話だし、スポーツ振興を図りたいなら、まずは義務教育課程の、サッカーなんてボール渡して試合やらせとけばいいだろ的な姿勢の体育教師、体育的なことを教える能も意思もない体育教師を一掃すべきである。

とまあ、こんなことを考えていると試合を見ていても気が滅入ってきて、途中でテレビを消してしまうわけだ。職場でオリンピックの話題になれば僕はなるべく自分の存在感を消すことに尽力する。結局これもまた、自分に対する甘さと他人に対する厳しさの不均衡という問題に帰結する。というかここ2年、何を考えても全てがそこに帰結する。自粛にしても、飲み会にしても、勉強にしても、全て。感染症そのものの脅威というより、一生この思考的な無限回廊から抜け出せない可能性の方が、僕にとっては怖い。その怖さと比べれば、ワクチンの副作用など、僕にとっては取るに足らないリスクといえるわけだ。