違うブログ

どこかの誰かが書いたやつとは違うブログのこと

超雑談7

  • 「グッズ」ってめちゃくちゃ烏滸がましい表現ではないかとずっと思っていた。goodかどうかは買って使ってからではないと判断できないではないか。しかしCD集めに目覚めた最近、むしろその方が正しいのかもしれないと思う。これだけストリーミングが普及した時代にCDって時点で既におかしい上に、CDプレイヤーも壊れているから、CDに残っているのは電子データの媒体としての機能のみ。さらに最近はCD購入時に音源ダウンロードもできてしまうので、媒体としての機能すら損なわれている。ビニールを開けては見るものの一度もCDを使わない、そんなCD生涯もありうるのが僕の場合である。それでも実の用とは関係のないよさがそこにはある。まさに最初からGoodsなわけだ。
  • 意地悪なことを書こうと思う。はてなブログSNSなど、ネットワーキング系の要素のあるインターネットサービスは、いかにユーザーを留まらせるか、サービスにユーザーを依存させるかという点に、心血を注いでいるはずである。そのサービスを継続利用したいという思い自体、設計されたものである可能性があるということだ。そう考えるとブログを継続することは果たしてかっこいいことなのか、疑問に思えてくる。ただ企業の設計したシステムにうまーく担がれているだけではないか、ということだ。まあ、僕もまだそうして担がれた人間ではあるし、システムがそう設計されていると認識しているかしていないかの違いは言葉の上での話であって実質的ではないので、これは自虐的な諸刃の刃なのだけれども。
  • アイデンティティーという言葉はあまり好きではない。自己同一性というのが好きだ。そして、自己が同一であると感じられる理由について考えるのが好きだ。僕たちは毎晩眠る時、意識を消失するのに、なぜか、翌朝起きた自分が昨日の自分と連続しているように感じる。なぜそんなことが可能なのか、僕には全然わからないし、自然の最も深い謎の一つなのではないかと思っている。
  • もう何の本だか忘れてしまった*1けど、積分の幸福と微分の幸福っていう言葉に触れたことがある。積分の幸福というのは、ある瞬間において苦痛があったとしても、長い目で見て幸せであればいっか、的な考え方。それに対して微分の幸福はその瞬間に幸福であることを要求する考え方。どっちの方がシビアなのか、僕にはまだよくわからない。苦痛を前提として生きる後者の方がシビアな気もするけれど、常に自らに幸福であることを強いるのも、実はかなりシビアなのではないかな。
  • 提示されたマシュマロをすぐ食べたか言いつけを守り10分我慢したかでその後の人生が決まるなんて思いたくない。そもそもここから得られるメッセージは何であるべきだろうか?「私の子は我慢した、将来有望だ」「我慢できなかった私の子はダメだ」とか、あるいは「子はマシュマロを我慢することを覚えるべきだ」だろうか。つまらない。
  • 限定コンテンツ!と謳ってくる広告を、じゃあいらないよ、とスキップする。仕事を変えるなら今だ!と謳ってくる広告を、いや変えなくていいし、とスキップする。家を探すなら!と謳ってくる広告を、いや探してねーし、とスキップする。広告は均しく僕を不足させようとしてくる。
  • 僕は冷静だ。後ろにいる若いカップルがイチャイチャしていることに僕は何ら気を揉んでいなかった。それが果たして満員電車の中で至近距離での出来事であったとしても、僕は動じていなかった。女はとめどなく男の胸をさすっていた。いわゆる乳繰りというヤツである。彼らは昨夜、熱い夜を過ごしたのであろう。彼らはその熱さをそのまま満員電車に持ち込んだ。季節を弁えていただきたいものである。
  • 他人のことを偉いと思えなくなっていることに、ふと気付いた。原因は不明だ。

 

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*1:医者ばかりの一家がなんかめっちゃ死んでく本。