ふと思ったんだけど

言葉にすれば、何か分かるかもしれない

内なるネガティビティへ

「楽しいですか?」という質問は「それ楽しくないだろ」という前提の上に組まれている。もっと言えば「楽しさは重要である」という前提で組まれている。前提が多くて真面目に反応するのがめんどくさい。でも君にならそういう話をしてもいいだろう。あくまで仮説だが、僕が考えてきたことを君と共有しよう。

君がいう”心の底の方に沈殿したネガティビティー”の処理について、二つのポイントがあると考える。まずは「外力」の必要性だ。変な話、君と同様僕も毎日あれこれ考えているが、一人で考えているだけで人間としての根幹的な納得が得られるとは思っていない。むしろ、時間の経過、偶然の他者との出会い、要は感覚によって・非論理的に納得させられることが多いからだ。従って、適切な外力に出会うために行動を企画することが味噌となる。

では、時間とか偶然とかが解決するのなら、悩むだけ無駄なのか。僕はそうは思わない。先ほど「適切な外力に出会うために行動を企画する」と書いた。で、適切な外力って何?という話である。「この外力が必要だ!」という論理があることもあれば、直感的な理由のこともあるだろう。何れにしても、自分に必要な外力を見極めるには「悩みの研究」が必要である。なぜその悩みが生じたのか?いつからその悩みはあるのか、その悩みは他の悩みと比べてどれくらい重要か、どうすれば解決できそうか、周りの人間はどう対応しているのか?そういう研究がなければ論理は生まれないし直感も鍛えられない。悩みの研究。これが二つめのポイントだ。

僕はこんなふうに考えている。それゆえに、僕は僕のネガティビティを肯定し、君のネガティビティも肯定する。いいのだ、ネガティビティは沈殿させよう。沈殿させ、積層させたのちに取り出して、徹底的に研究しよう。僕らが自分自身に納得するために。最も深い納得は最も深い悩みについて有力な仮説が得られた時に訪れる。君と最後に話した時に-あの時はとても良かった-それを知ることができた。あの美しい納得感を得るためだけに動こう。楽しさとか幸せとかは、その副産物に過ぎないのだ。

 

p.s.こういう状況なので気軽に行動を企画できないのが辛い。お互いに感じている閉塞感の原因はこれではなかろうか。