違うブログ

どこかの誰かが書いたやつとは違うブログのこと

超雑談8

  • 電子書籍のいいところは、少し安いところ、カーボンフットプリントが小さくて済むところ、そして、保有を他者に知られなくていいところ。子供向けの漫画を大人買いした僕の昨日の行為が他人に見られることはない。きっかけは単純、ハッピーエンドが欲しかった。どんなに幼稚でもどんなに馬鹿らしくてもいい、ともかく、ハッピーエンドのイメージが欲しかった。ハッピーエンドは卑怯だが、それこそがハッピーエンドに惹かれる理由だ。エンドの部分を無視しても許されるだろうという最高の現実放棄なのだ。
  • Fromis_9のこの曲は中毒性が高い。ミュージックビデオもなかなか良い。ここのところのK-popのミュージックビデオはシーンの切り替わりが速くて追従できないものが多いが、これに関してはコンセプトが比較的明白でストーリー性もある。現代的というかコロナ禍的というか、社会がなんとなく欲しているものを的確に射抜いたような打算的なところも良い。

    youtu.be

  • 意味のないものの存在に安心する。意味のないものが存在を許されていることによって、僕自身に多少意味がなくてもいいと思えてくるからだ。
  • この世で一番敵が多いものってなんだろう、と考えていた。僕の答えは「時間」。大抵の人間はなんらかの時間と戦っているから。
  • 人に会うことは相手にとって迷惑。他人と予定を合わせるために別の予定を動かさなければならない。その面倒臭さを上回る接触欲がなければいけない。ところが今はその迷惑側の理由に感染症が加わってしまった関係で、ハードルがやたらと高く、今までと同じレベルの会いたい欲では跳躍力が足りない。
  • 人生に正解はないという言葉があるが、あえて厭な言い方をするなら、それはつまり自分が間違いである可能性に延々と付き合わされるということでもある。自由をある程度与えられた僕の今の状況は、自分なりの正解を強固に構築するチャンスでもあるけれど、その自由を全く活用できないままに”終わる”ことほど恐ろしいことも無い。
  • 対面型勤務と非対面型勤務が混合した状態では、支配的だった非対面型勤務は駆逐されていく方向だと思う。ただし対面型と非対面型って対称ではない。全員が参加する打ち合わせで自分だけが非対面だと、何だか申し訳ない気分になる。その逆、つまり過半数が非対面なのに自分だけ対面で申し訳ない、というのは無い。実際は対面で会うほうが、感染のリスクに相手を晒すことになる上、そこに至るまでの費用を発生させるので、対面で申し訳ないの方が正しいようにも思えるのにも拘らず、だ。対面型の勤務自体に、対面型であることを要求する同調性が内在している。
  • 早く日常に戻りたい、なんて言葉を聞くと、そんなもんかな、と思う。適度な運動ができ、それなりにバランスの取れた食事が摂れ、十分に睡眠ができ、通勤電車で揉まれることなく、一人で静かに音楽を聞いていられる今は、僕にとって悪いことではない。コロナ前の日常への回帰はその出来上がったサイクルを壊してしまう。
  • 友人に「お前は誰かに認められたと感じたことがないのではないか」と質された。僕はそれを聞いてああそうかもと思った。なりたいものになれるのなら、別に認められたいとも思わない。ただ納得はしてみたいなと思う。満足はハードルが高いので、納得程度なら僕でも実現可能かなって。

 

  • 新年ですね。今年はもう少し、発展的な一年にしようと思います。