蛾と僕
毒ガスを全身で浴びた蛾が地に落ちるのを僕は眺める。この蛾にとって長く苦しい終わりが始まる。それがいかに長く辛いものであるか、僕には想像ができない。逃がすことはできた。しかし僕はそれを拒んだ。理由、面倒だから。あるいは、ハエたたきに相当する雑誌で一瞬で終わらせることもできたが、それも拒まれた。理由、面倒だから。僕という超常的に怠慢なもの故に、たまたまこの部屋に迷い込んだ蛾の命が、長く苦しいかたちで奪われようとしている。
僕を見上げてバタついている蛾を眺めながら、僕は蛾が何を考えているか想像しようとする。蛾は何も考えていない、という人もいるかもしれないが、それは証明可能か。僕は確かにこのように考えているが、蛾は僕が考えているかどうか、断定できない。同じように、僕も蛾が考えているかどうかは断定できない。互いに読むことのできない物語が二つあり、その片方がもうすぐ消えようとしている。僕が覗き込む蛾の眼は何も語らない。その擬瞳孔に映る感情は全て僕のものだ。蛾と共に僕は痙攣する。僕の部屋、僕の感覚は蛾に蚕食される。一晩はそれを許そうと思う。蛾への追悼として、あるいは、蛾と共に死んだ僕のようなものへの追悼として。そして明日、掃除機を以てその遺体を処分することになるだろう。