報われない戦いなのだと思う
という書き出しでこの下書きは始まっていた。それが入力されていたおかげで重大な過ちに気づいた。幸い自分に近い人たちはこの感染症によって大きな損失を被ってはいない。これを努力に対する報酬と捉えられないのは不自然だ。感覚を補正しなければならない。
この努力ってやつがまた厄介だ。自粛は僕にとっては努力を要するものではないはずだが、今はそれを疑っている。報酬を得ていると感じられなかったのは我慢していたからではないか。自分は我慢はしていない、と自分に言い聞かせることで、予想していなかった心理的な影響を認められないのではないか。あとはアレか…不要不急の自粛ってのは「何もしないこと」なわけで、「何もしない」のと報酬の感覚は結びつきにくいのかもしれない。
友達が少なく趣味もインドアな僕と、遊びに・飲みにいかなければならないと感じる人たちとの決別は、より決定的になっている。オフィスに出社していた時代はそれでもそれらの人と会わなければいけなかっただろうが、今は絶賛テレワークの時代であるゆえ、こいつとは分かり合えないと斬るのが非常に簡単になった。危険である。しかしまあ、どうせ、僕と彼らとで、脳の構造とかにおける逕庭はないのだろう。俺はあいつとは違う、みたいな峻別の試みは失敗するのが筋だ。
感染抑制と経済対策の両立という言葉を何度も聞いたが、両立という言葉が出た時点で懐疑的になるのは僕だけではないはずだ。僕が通った義務教育学校の中にもスポーツと勉学の両立を謳っているところがあったが、それを体現した生徒はごく少数であり、残りの大多数の生徒はどちらかに偏るかどちらも中途半端になるかのいずれかである(自分は後者)。全体的な構成比率で見れば「スポーツと勉学の両立」ではなく「スポーツと勉学の二極化もしくは対消滅」が正しい。極タイプは完結しているのでいいが、対消滅タイプにとっては非常にやりづらい。
あれこれ愚痴ってしまったが、愚痴で記事を終えるのは僕としても納得がいかないので、何か自分に向けてポジティブなことを書いてみよう。新しさを供給し続けよう。コロナ前と同じ他人との絶対的会話量を確保しよう*1。週に一冊は小説を読み、二日に一度は日記を書き、日に日に鈍磨する感覚をもう一度研ぎ澄まそう。そして週に一度はウェブにものを書こう。
*1:https://sourceone.hatenablog.com/entry/squeaky-weaklingで書いたことをまだ実践できていない。やらねば