違うブログ

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お疲れ様

お参りに行こうか、と彼はいう。夜9時の少し雨の降るオフィス街。黙ってその方向に歩みを変えた。

その神社は雑居ビルの合間にポツンと存在する。通りから参道が5メートルほどあり、神社自体の面積は3メートル角くらいだろう。神社といっても祠程度だ。周囲を灰色の壁に囲まれ、自由な空を奪われ、こんなところに神がいるのか…と、疑問に思うだろう。しかしそういうところにこそ意外と神はあるのだ。例えば熊野那智大社なんかは”当たり前”の神社だ。山形の立石寺、京都の清水寺もそう。あそこに神社仏閣がなかったらむしろ驚く。そういう必然的な神は、相応しくない。

神社の幅は狭く、二人で同時に手を合わせることはできないくらいだ。傘を畳み、しゃがんで手を合わせている彼の背中を見ている。神社は神の家というのが一般的なアレだろう。でも、神無月には神はいないわけだし、もっと気まぐれで別のところに出かけていく神がいてもおかしくはないだろう。彼は今、神に向かっていると信じているかもしれないが、実はそもそもそこにいなくて、彼は見当違いな方向を向いていると考えるとちょっと面白い。そう、例えば、彼の後ろに神がいたら?果たしてそれは意味をなす祈りなのか。

彼はいったい何を祈っているのだろう。祈りというのは実質的には報告だ。何かになれますように、と願うものではない。彼は見えないものに対して、僕はこうです、これからああなります、そのためにこうしていきます、と報告をしなければならない。中身はわからないが、その行為を僕は見ている。それを神様は見ている。この疲れ切った、でも誇り高きサラリーマンの報連相を。

やがて彼は立ち上がり、もう一度礼をして、傘を再び手にとり、街の雑踏の中に消えていく。薄汚い小さな神社に入る彼を冷めた目で見つめた街は、この神社から出てくる彼を生暖かく受け入れる。この微妙な時間が彼にとって何の意味を持つのか、僕には想像はできない。でもなぜかそんな彼のことを僕はいつまでも見ていられるのだ。

 

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